記事内に広告を含みます
この記事には広告を含む場合があります。記事内で紹介する商品を購入することで、当サイトに売り上げの一部が還元されることがあります。





















この記事には広告を含む場合があります。記事内で紹介する商品を購入することで、当サイトに売り上げの一部が還元されることがあります。
こんにちは。毎日たくさんのニュースや情報が飛び交う中で、ふと心が疲れてしまうことはありませんか?
テレビをつければ、誰かが誰かを批判し、SNSを見れば、一部の情報だけで誰かの人生を決めつけるような言葉があふれています。特に近年、特定の信仰を持つ人々に対して、メディアや世間、時には政治家までもが、冷たい視線を向け、心ない言葉を投げかける光景を目にすることが増えました。
「あの人たちはマインドコントロールされている」
「あの信仰は偽物だ」
そんな風に、外側から勝手なレッテルを貼られ、これまで大切に守ってきた信仰や、家族のために流してきた涙まで否定されるような風潮があります。もしあなたが、そのような言葉に傷つき、心が折れそうになっているなら、今日お伝えするお話は、きっとあなたの心を温め、再び立ち上がる力を与えてくれるはずです。
今回は、「中川TV チャンネル」の中川牧師による力強いメッセージ動画、「国家権力でも奪えないものがある 信仰者はなぜ倒れないのか 信仰者の証はここから始まる 祈りは消せないし良心は折れない! 傷を抱えた者だけが語れる希望がある」の内容を紐解きながら、私たちが人生の嵐の中で見失ってはいけない「本当の希望」について一緒に考えていきたいと思います。
どんなに周囲が騒ごうと、決して誰にも奪えないもの。それは、あなたの心の奥底にある「祈り」と「良心」です。

今、世の中では、信仰者の歩んできた人生や、その深い祈りについて、信仰を持たない外側の人たちが「まるで自分たちが裁判官であるかのように」勝手に説明し、裁定を下そうとする風潮があります。
テレビのコメンテーターや、SNSの匿名の声が、「あんなものは本物ではない」「洗脳されているだけだ」と、いとも簡単に切り捨ててしまう。そんな光景を見て、やるせない気持ちになった方も多いのではないでしょうか。
中川牧師は、この現状に対してはっきりと異を唱えています。
「信仰って、他人が簡単に判決を下せるような、そんな浅いものではないんです」
私たちは、誰かの論評を聞いて信仰を持ったわけではありませんし、誰かの批判によって信仰が消え去るわけでもありません。信仰とは、もっとずっと深く、個人的で、尊いものです。
それは、誰も見ていないところで神様の前で流した涙であり、人生をかけて結んだ神様との約束であり、何度倒れても「もう一度立ち上がろう」と自分を奮い立たせる魂の力です。
「家族のために耐えた日々」「人に誤解されても、それでも神様を信じて踏みとどまった心」。
その苦しみや葛藤を、外側からちょっと見ただけの人が、数行のニュース原稿や、心ない言葉で片付けられるはずがありません。
もし今、あなたが周囲の言葉に傷ついているなら、どうかこれだけは忘れないでください。あなたの人生は、誰かの「都合のいい物語(ニュースやスキャンダル)」の材料にされていいものではありません。
メディアが語る「マインドコントロール」といった単純な言葉では、皆さんが抱えてきた葛藤や、祈りの深さを説明することは絶対に不可能です。あなたの信仰の価値は、世間の評価ではなく、神様とあなたとの間にだけある確かなものなのです。

とはいえ、教会の歴史や組織を振り返ったとき、「完璧だった」と言えるでしょうか。人間が集まる場所である以上、そこには不完全さがあり、混乱や未熟さ、様々な問題があったことは事実です。
「あの時、もっとこうしていれば…」と、組織のあり方に疑問や痛みを抱いている方もいらっしゃるかもしれません。
キリスト教の歴史を振り返っても、教会は決して最初から完璧ではありませんでした。偉大な神学者であるアウグスティヌスは、「罪人の集まりである教会が、なぜ『聖なる教会』と言えるのか?」と問いかけました。
彼の答えはこうです。
「キリストの神聖が保持されているから。つまり、キリストがそこにおられるから」
人間は弱く、間違いを犯します。組織にもほころびが出ます。しかし、だからといって、例えば家庭連合(旧統一教会)の信者の方々が、これまでの人生で神様の前で積み上げてきた「真剣な祈り」までが、偽物になるわけではありません。
人が組織の欠点を論じ、過去の歴史をほじくり返したとしても、あなたが神様に向けてきた純粋な心や良心は、そんな外側の議論だけで断ち切られるようなものではないのです。

今、一部の信仰を持つ人々は、かつてないほどの激しいバッシングにさらされています。世論の批判だけでなく、国家権力さえもが介入し、組織を追い詰めようとする動きがあります。
「この先、どうなってしまうのだろう」と、不安や恐れを感じるのも無理はありません。
しかし、中川牧師は力強く語ります。
「国家権力が奪おうとしても、慌てなくていいんです。静かに、自分の心に問いかけてみてください」
この問いに、テレビのコメンテーターは答えられません。政治家も答えられません。答えられるのは、あなた自身と、神様だけです。
人が本当に弱ってしまうのは、外から激しく責められた時ではありません。「自分で自分を疑い始めた時」です。周りの言葉に振り回されて、「私の信じてきたものは、間違っていたのだろうか」と心が揺らいだ時が、一番苦しいのです。
だからこそ、今必要なのは「原点に帰ること」です。
初めて神様を求めたあの日の心、御言葉に支えられて立ち上がったあの時の祈り。その原点に立ち返った時、周りが何と言おうと、あなたの心には決して揺るがない平安が戻ってくるはずです。
世論が騒ごうと、法律や制度が変わろうと、究極的に信仰者を支えるのは「世間の称賛」ではありません。
「神様の前で、私はこの道を歩みます」と言える、その真っ直ぐな心です。
状況が有利だから信じるのではなく、人に褒められるから信じるのでもない。苦しくても、誤解されても、それでも神様を見上げる。そこにこそ、信仰者の本当の尊さがあります。
覚えておいてください。
国家権力は、建物を奪うことはできるかもしれません。社会的な肩書きを奪い、孤立させることはできるかもしれません。
しかし、あなたの「祈り」を奪うことは絶対にできません。あなたの「良心」を折ることはできません。神の前に立つという、その魂そのものまでは、誰にも奪えないのです。

人生において、誰もが「無傷」で生きていきたいと願います。苦しい思いや、悲しい思いなんて、誰だってしたくありません。
しかし、神様は時に、私たちにあえて「傷を負うような道」を通らせることがあります。
信仰を持たない人から見れば、「なぜわざわざそんな苦しい道を行くの?バカじゃないの?」と思われるかもしれません。でも、神様を知っている人には、そこを通らざるを得ない、深い意味があるのです。
中川牧師は動画の中で、拉致監禁の被害に遭われ、後に亡くなられた藤田孝子さん(家庭連合の信者・殉教者)の詩を紹介し、「傷から生まれる宝石がある」と語っています。
皆さんは、「真珠」がどのように作られるかご存知でしょうか?
ダイヤモンドや金は、元々は命を持たない石ころや鉱物です。しかし真珠は違います。貝という「命」の中に、砂などの異物が入り込み、その激しい痛みを和らげるために、貝自身の分泌物で異物を包み込むことで出来上がります。
つまり、真珠は「命の痛みと傷」から生まれる宝石なのです。
キリスト教の歴史において、イエス・キリスト自身も、誰よりも深い傷を負った方でした。鞭打たれ、傷だらけになって十字架にかけられました。神様である方が、なぜそこまでの傷を負わなければならなかったのでしょうか?
その理由は、「多くの傷を負った人は、多くの人の痛みを理解することができるようになるから」だと、中川牧師は語ります。
もちろん、人の苦しみは千差万別で、完全に同じ傷を持つ人はいません。それでも、自分自身が深く傷つき、痛みを知っているからこそ、目の前で泣いている人に心を重ねることができます。
「どうしてこの人はこんなに悲しんでいるのだろう」と、他者の痛みに寄り添い、共に涙を流すことができるのです。
今、バッシングの中で傷ついている方々。あなたのその傷は、決して無駄ではありません。
大切なのは、その傷を「神様の前に差し出すこと」です。
傷ついたまま、ただ痛みを抱えているだけでは辛すぎます。しかし、その傷を神様に差し出し、神様に触れていただいた時、その傷は特別なものに変わります。
神様に触れられた傷は、やがて他の誰かを慰める温かい言葉になり、人を癒やす深い愛へと変えられていくのです。
あなたのこれまでの涙も、飲み込んだ悔しさも、すべては「誰かの痛みを理解し、包み込むための力(真珠)」になるために、神様が許されたプロセスなのかもしれません。

しかし一方で、この世界には「悪意によって支配された傷」の連鎖があります。
自分が傷つけられたからといって、「あいつのせいだ!」と他者を憎み、恨み、他の人の傷に塩を塗り込むような行為です。
中川牧師はここで、非常に深刻な問題である「拉致監禁・強制棄教」の問題に強い怒りを持って触れています。
日本では過去数十年にわたり、一部の信仰を持つ人々(主に家庭連合の信者など)に対して、家族やプロの脱会請負人が結託し、本人の意思に反してマンションやアパートの一室に数ヶ月から数年も監禁し、信仰を捨てるまで肉体的・精神的な圧力をかけ続けるという、恐ろしい人権侵害が行われてきました。
拉致監禁の実行犯たちがやっていることは、まさに「傷口に塩を塗る」行為です。
彼らは、ただでさえ心細く、監禁されて恐怖におののいている信者に対して、「お前は騙されているんだ」「教団が悪いんだ」と塩をすり込みます。
そして、痛みに耐えかねて悲鳴を上げると、今度はその悲鳴を利用して、「ほら、お前がこんなに苦しんでいるのは教団のせいだ。教団を訴えろ!」と、さらなる憎しみへと導こうとするのです。
「あなたのためを思って」というポーズをとりながら、その手には塩が握られている。傷ついた人を利用して、特定の団体への恨みを増幅させようとする。
中川牧師は、「ああいうやり方は本当に嫌だ。それは決して『癒やし』ではなく、さらなる傷を増やすだけの行為だ」と強く非難しています。
拉致監禁という、言葉では言い表せないほどの深い傷を負った被害者の方々が全国にいらっしゃいます。
あまりにも理不尽な暴力に遭えば、誰かを憎みたくなるのは当然です。しかし、中川牧師はこう呼びかけます。
「自分の傷を、誰かを憎むために使うのではなく、そのまま神様に差し出してください」
憎しみは憎しみしか生みません。しかし、神様に触れられた傷だけは、人を理解する力になり、人を癒やす愛へと変わる可能性を秘めています。
理不尽な傷を負わされたことに絶望するのではなく、祈りを通して、その傷を神様に委ねること。そして、同じように痛みを知る兄弟姉妹と心を重ね合わせること。
そうすることで、傷は「人を傷つける刃(やいば)」ではなく、「人を包み込む慰め」へと変えられていくのです。

家庭連合の方々をはじめ、今、信仰ゆえに大きな試練の渦中にある皆さんは、本当にたくさんの痛みや傷を負ってこられました。
なぜ、これほどの試練が特定の信仰に集中しているのでしょうか。
中川牧師は、その意味をこう捉えています。
「この世の痛みに対して何かを語らなければならない時のために、必要な言葉を持つためではないか」
イエス様が十字架にかけられたからこそ、ペテロやヨハネ、パウロといった弟子たちは、世界に向けて力強く愛と許しを語る言葉を持つことができました。
同じように、深い傷を負い、それでもなお信仰を捨てずに立ち上がった人だけが、語ることのできる「真実の言葉」があるのです。
今は嵐の時かもしれません。しかし、激しい嵐の中でこそ、深く根を張った木は決して倒れません。信仰も同じです。試練の中でこそ祈りは真剣になり、涙の中で神様をより切実に求めるようになり、信仰の確信は深まっていきます。
この時代は今、大きな転換期を迎えています。
特定の教団だけがバッシングされているように見えて、実は日本における「信教の自由」そのものが危機に瀕しています。どこかの教団が国家権力によって不当に潰されることを許せば、次は別の宗教、そして最終的には私たちの「心の内面の自由」すべてが奪われることになりかねません。
だからこそ、これからの時代は、一つの教団の殻に閉じこもるのではなく、宗派や教派を超えた「宗教者同士の一致」が必要不可欠です。
中川牧師は、「ただ傷つけられるだけの時として終わらせず、これを新たなミッションの始まりにしてほしい」とエールを送っています。
高ぶらず、しかし怯むことなく。憎まず、しかし屈せず。
騒がず、しかし揺るがず。
国家権力の力によって、信仰者がポキッと折れてしまったり、消し去られてしまったりしたら、そんな世界は希望がありません。
「あんなに激しいバッシングを受けたのに、彼らは愛と祈りを失わずに乗り越えた!」
その姿を見た時、周りの人々はどれほど励まされることでしょう。
信仰は恥ではありません。祈りは決して無意味ではありません。
あなたが歩んできた道、信じてきたことには、必ず深い意味があります。たとえ今、世間の誰からも理解されなかったとしても、あなたが神様の前で流した涙を、神様はすべて知っておられます。
だから、集まることをやめないでください。隠れないでください。
むしろ堂々と立ち上がり、「私たちの信仰はこんなにも素晴らしいものだ」と、世の中に向けて証(あかし)をしていきましょう。
あなたの抱えたその傷から生まれる「真珠」のような輝きが、これから多くの人を救い、新しい世界を照らす光となっていくのです。
この記事が気に入ったら
フォローしてね!

